読者の感情を動かす 短編漫画のストーリー

短編漫画のストーリーで、読者の感情を自分の意図通りに動かせるようになるための、一見魔法のようだけれど、その実、わりと確実な方法を考察する時間

中間報告 読者の感情を動かすには「濃さ」と「そのコントロール」が必要なんじゃないか | 第九回

11年前の自分の教えたい 色々な事がわかってドキドキしています。

こんにちは。田中裕久です。このコラムをはじめて9回めを迎える訳ですが、何回やるかを決めていないので、ここらでひとまず中間発表的なことをしたいと思います。
やー、読んでくれている人がいないんじゃないか説などが自分の中にありまして、書くのに難儀したこともありましたが、先日このコラムを見て教室に見学に来てくれた生徒さんもいて、また、何よりも自分自身の中でこの11年間疑問や謎だったことがわかったりもして、本当に実りあるものなので、書いてよかったなぁとそんな風に思っています。

で、僕は漫画教育に携わってもうすぐ丸11年が経つのですが、僕が長年疑問に思っていたこと、
①「ベタ」と「王道」の違いは何か?
②「自分ぶし」はどうやって作りだせばよいのか?
③「魔法の一匙」は何なのか?
について、自分なりに言語化出来て答えが見えたことで今こうやって書きながら、大変ドキドキしています。今僕が見えているものを、11年前の自分に見せてあげたいです。

「ベタ」と「王道」の違いは何か?

この問題がずーっと自分の中で疑問だったのです。ベタとは、ストーリーの先が読めたり、既視感(既に視たことがある感じ)が強く、読んでいて予想通り物語が進行するので、とても萎える感じを言います。王道とは、「来るぞ、来るぞ、来たーー!!」というように、ストーリーの先に何が見えるかほぼわかるのですが、その予想通りに来る感じが気持ちよいというか、予想通りに来てくれるから気持ちの良い感じを言います。

このコラムで取り上げた作品などで言うと、「GTO」や「ドリフターズ」はストーリーラインで言うと「王道」漫画です。主人公が活躍し、問題の解決・勝利を手に入れることが最初からわかっていて、主人公がいかにかっこよく問題を解決するか、勝利を手に入れるかが見どころになります。このことは、「ワンピース」でも顕著でしょう。他に、かわぐちかいじさんの「沈黙の艦隊」や、弘兼憲史さんの「課長島耕作」などが王道漫画の代表例です。次回、これから述べることを「ワンピース」第1話で検証していきます。

漫画家志望者、特に少年漫画・少女漫画家志望の生徒のみなさんも一生懸命漫画を描いています。「ワンピース」みたいな漫画を描こうと、本当に一生懸命に描いてくれます。が、ほとんどの漫画家志望者の漫画は残念ながら「ベタ」の域を出ず、どこかで見たことがある感じと作者のやりたいことはわかるのだけどね、という感じの感想になってしまいます。
私は漫画家志望者に近い立場にいるので、それが何故なのかとても疑問だったし、何とかそれを打破する方法を考えていたのですが、それがなかなか見つかりません出した。

けれど、今回の一連のコラムでそれが何故なのかがはっきりと見えました(断言)。漫画を描くみなさんなら、知りたいでしょ? その理由。
後でまとめて教えますね。なのでこのコラムを最後まで読んでください。

というような読者との対話・間合いの取り方です。端的に言うと。

「自分ぶし」とは何か? どうやって見つければよいか?

自分ぶしに関して言うと、このコラムで取り上げた全ての作品が「自分ぶし」が利いている作品です。「GTO」の主人公鬼塚の問題解決の方法は、藤沢とおるさんしか出来ない方法であり、鬼塚のセリフや行動で一々、藤沢とおるぶしがさく裂していますし、「父と息子とブリ大根」での主人公とキンちゃんとの会話は、何気ない会話のようでいて、中村明日美子ぶしがさく裂しています。「自分ぶし」とは、そうやってその作家さんにしか出来ないエピソード作りだったりキャラクター作りだったり会話の内容だったり、世界観・設定・シチュエーションの作り方を言います。小説だと、村上春樹は「ハルキニスト」というコアなファンがいるほど自分ぶしが強い作家です。
この自分ぶしについても、「ワンピース」では、第1話60ページ少々で、尾田栄一郎さんは既に尾田ぶしをさく裂させているので、短編漫画でも再生可能なはずなのですが、漫画家志望者が自分ぶしをさく裂させるのはなかなか難しいことです。
短編漫画の中で自分ぶしを短いページの漫画の中でさく裂させるには、当たり前ですが作者自身が自分ぶしが何か、どこにあるのかがわかっていて、イントロから始まる短いプログラムの中でそれを全面に押し出していく工夫が必要です。そのためには、自分ぶしがどこにあるのか、そしてそれをより濃くしていくにはどうしたらよいのかについて日頃から考えておく必要があります。
これに関しても今回、ある答えが見つかりました。濃くしていくのはとても大事なのですが、それを読者の印象深く演出することの重要性です。次回お話します。

「魔法の一匙」とは何か?

11年前、漫画教育者になりたての私は、プロの作る王道漫画と生徒たちが作るベタな漫画の違いについて、かなり感覚的に次のように話しました。
「プロが作る漫画は、不思議だけど、不思議なほど面白いんだよね。みなさんの作る漫画とストーリーラインはほとんど変わらないのにね。何か、魔法の一匙が加わっているんだよね」と。
こんな抽象的な説明しか出来なかった私ですが、今はその魔法の一匙が何かがわかります。それは「圧縮と解放」を読者の呼吸に合わせることです。

上記の3点の疑問の回答について、私はこのコラムで読者の感情を動かすにはどうしたらよいのだろう? という視座で漫画を分析することによって見つけました。
以下、それをまとめようと思います。

漫画はフィクションと考えて差し支えないのではないか

前回触れた「漫画脳の鍛え方」の中で、インタビュアーは漫画を「SF」と表現していますが、私の感覚だとサイエンスフィクションというよりはフィクションと言った方がしっくりします。フィクションの定義は「日常」「非日常」とざっくり2つ分けたうちの非日常の部分です。なので、歌舞伎や宝塚もフィクションと捉えます。
よく言うのですが、歌舞伎や宝塚のメイクや衣装を着た人が電車の中にいたら、とてもびっくりするし、大きな違和感があると思います。それは、歌舞伎や宝塚が非日常(フィクション)の舞台の上での劇だからです。漫画にもルポルタージュやエッセイのようなものもありますが、基本的に漫画のほとんどは非日常的なフィクションと考えます。読む側もそれを期待するし、描く側もそれを覚悟して描かねばなりません。
歌舞伎や宝塚のメイクや衣装が何故あんなに濃いのか。それは、非日常の舞台の上の熱を観客に届け、観客を熱く共感させ、感情を動かすにはあれぐらい濃くしないと成立しないからです。
みなさんの漫画は、歌舞伎や宝塚と比べて濃いでしょうか? キャラクターが濃い演技をしているでしょうか?
恐らく、多くの方が薄いと思います。売れっ子の漫画家が作るあの神がかった濃さはなかなか真似出来るものではありませんし、確かな技術に裏打ちされていて、なおかつ多くの場合、長編漫画の疾走感の中で生まれ出て来るものです。専業漫画ではなく、短編漫画しか描けない私たちがあそこまで作品の中に入り込んでキャラクターに迫真の演技をさせるのはとても難しいでしょう。
私たちは、絶対的にプロの漫画家の濃さが不足しています。

濃いいだけではダメ。原稿用紙を使って読者と対話をしよう

さて、私たちががんばってプロ仕様の濃さ・自分ぶしを手に入れたとしましょう。しかし、それだけでは本当に面白い漫画、先がわかっているのに面白い王道漫画は描けません。今度は自分ぶしの運用です。
私たちは多くの場合、イントロで読者の心を掴まなくてはなりません。新人で何の実績もない私たちの原稿のイントロが面白くないと、持ち込み先の編集者さんのテンションはより下がるでしょうし、万が一雑誌に掲載されたとしても、読者は読み飛ばしてしまうと思います。なので、イントロは自分ぶしがさく裂していて、何の期待もしていない編集者や読者が「おっ」となる工夫が必要です。前回のコラムで「私たちはイントロも中盤も山場も面白い漫画を描かなくてはならない」と述べましたが、これにはもう少し説明が必要です。先ほど述べたように、イントロは全力で掴みに行かなくてはいけませんが、その後、とにかく濃いだけの原稿を描いていると、読者の目はその濃さに慣れてしまうので、山場での快心の一撃が効果的ではなくなってしまいます。これまで8回で触れて来た漫画は、濃いだけでなく色々なやり方で読者の感情を揺さぶっていました。多くの場合、時に読者を焦らすような、そういう工夫もありました。
焦らしとは、今回の私のコラムで言うと、
けれど、今回の一連のコラムでそれが何故なのかがはっきりと見えました(断言)。漫画を描くみなさんなら、知りたいでしょ? その理由。
後でまとめて教えますね。なのでこのコラムを最後まで読んでください。
の部分です。
自分ぶし、自分なりの濃さを見つけるのは大変な作業ですが、それが出来てから、またはそれと並行して、ぜひこういう焦らしのテクニックなどを使い、「読者と対話」「読者と呼吸を合わせること」をしてください。
私たちは漫画を描く時、原稿用紙に向かっています。私も今、パソコンに向かってこの文章を打っています。しかし、みなさんの原稿用紙や私のパソコンの先には、多くの読者がいます。「その読者が今どういう気持ちでこの作品を読んでいるだろう?」「このシーンを描くと、読者の感情はどう動くだろう?」と考えるのはとてもとてもとても大事なことです。プロの漫画家になるとは、詰まる所その対話・コミュニケーションを雑誌・コミックスを通して読者とすること、と言って良いと思います。

再び、「ベタ」と「王道」の違いについて 魔法の一匙について

こう覚えましょう。漫画・小説・映画やテレビドラマの脚本・ゲームのシナリオなどは、「読者に飴を食べさせる行為」です。これまで述べて来た自分ぶしとは、飴の味・飴の美味しさです。読者が「美味しい! もっと食べたい!」となるには、当たり前ですが読者の口に入れる飴が本当に美味しくないと可能になりません。しかし、それだけでよいのか。飴を食べたくない読者の口を無理やりこじ開け、手の汗でベタベタになった飴玉を読者の口にねじ込めば、読者は恐らく飴玉を吐き出すでしょう。
漫画などのエンターテイメントの脚本も全く同じです。
私たちは、物語の山場で読者の口に飴を放り込むのですが、それまでになるべく、読者が「その飴食べたい!」と思わせる必要があります。イントロで「美味しそうでしょ? この飴。今美味しいって評判なんですよ」とか、「この飴はね、今品薄でなかなか手に入らないのですよ」とか、時に周りの人たちが「この飴美味しい!」と言っているのを見せ、読者に自分の飴玉に興味を持たせます。そして中盤を通して、読者を押したり、引いたりしながら、読者の意識を常に飴玉に向けさせます。そして、「その飴を早く食べたい」と思わせます。王道漫画が何故面白いのか、何故ストーリーが先読みできるのにハラハラするのか。それは、読者に飴玉が食べたいと思わせ、焦らし、「さあ、食べたいでしょ? じゃあ、ページをめくると口の中に入れますよ」という演出が出来ているからです。で、本当にその飴が美味しいから、読者は「これ面白い!」「続きが読みたい。ぜひ連載にして!」とアンケートを書き、あるいはネットで話題にして、連載が取れます。
これを読んでいるプロじゃないみなさんで、自分の漫画のネームを切っている時、上記のような読者とのやり取り、対話についてきちんと考えている方がどれぐらいいるでしょうか? おそらく、ほぼいないと思います。
魔法の一匙とは、この、読者が自分から口を開け、飴を求めているところに、「寄せて」優しく飴を放り込むの技術です。
この「ベタと王道の違い」についてや「魔法の一匙」については次回「ワンピース」でやります。

しかし、ここまでは私が11年間やってきてやっとこさ気づいたところです。プロの漫画家さんたちは、言語化するしないは問わず、上記のことをわかった上で漫画を作っています。私たちも、出来るようになりましょう。

という、中間報告でした。

 

 

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