読者の感情を動かす 短編漫画のストーリー

短編漫画のストーリーで、読者の感情を自分の意図通りに動かせるようになるための、一見魔法のようだけれど、その実、わりと確実な方法を考察する時間

美味しい飴玉を読者の口に放り込む 「ワンピース」を読む | 第10回

One piece (巻1) (ジャンプ・コミックス)

One piece (巻1) (ジャンプ・コミックス)

 

「ベタ」と「王道」の違いがはっきりとわかったので

前回、中間報告として、私自身がこのコラムを書く中で、長年疑問だった「ベタ」と「王道」の違いについて論じました。みなさんご納得いただけたでしょうか? 私としては、とても理解が致したので、今回は「ワンピース」第1話を例に、王道漫画が何故私たちの感情を動かすのか、逆に言うと、読者の感情を動かす王道漫画の作り方について考察したいと思います。「ワンピース」第1話は、元々読み切りとして掲載された独立色の強い回です。ここで有名なシャンクスのエピソードなどがあります。

70巻を過ぎても売れる「ワンピース」のすごさ/必ず1巻に何か所か泣けるシーンがある

さて、「ワンピース」は言わずと知れた尾田栄一郎さんの大ヒット漫画です。「ドラゴンボール」の連載が終わった後、世の中の人たちは「ドラゴンボール」以上に売れる・面白い漫画はもう出て来ないのではないか、と言いました。が、「ワンピース」が出て来て、大ヒットしたことは私にとっては美談です。今後、「ワンピース」以上に売れる漫画が出て来ることも期待します。「ワンピース」がいかに優れた漫画かについては、既に色々な人が色々なところで論じていると思いますが、私が特にすごいなぁといつも思うのが、70巻を過ぎても読者がついて来ていて、売れ続けているということです。これは、本当に並大抵のことではない気がします。連載漫画は多くの峰が連なる連峰のような物語の形を取りますが、どのシリーズでも読者が「コミックスが出たら買おう」と思い続けているから売れている訳で、そう思わせ続けるのが尾田さんの手腕な訳です。そして、そこにこのコラムのテーマである「読者の感情を動かす」ヒントがありそうな気がします。
現在も「ワンピース」の熱心な読者で、コミックスの新刊が出たら必ずその日のうちに買う友達に、何故そんなに「ワンピース」が面白いのか、読み続けるのかについて聴いたことがあります。彼曰く、「「ワンピース」を買うと、どの巻でも必ず2か所ぐらい泣ける、グッとくるシーンがある。それが欲しいから買う」と。これはおそらく、「ワンピース」の熱心な読者の多くの人に当てはまることだと思います。
このコラムのテーマに寄せると、尾田さんはまさに「読者の感情を動かす」のが上手な漫画家さんなのだと思います。コミックス1巻の中で必ず何か所かで読者の感情を動かしているので、上記の友達のようにそれが70巻を越えてもまだ読み続ける読者が多くいるのです。

第1話のどこで感情が動くか

先ほど言ったように、「ワンピース」の第1話は読み切りでも成立する物語になっているのですが、この第1話のどこで読者の感情が動くのかは、かなり明確です。ほとんどの人は、42ページからのシーンではないでしょうか。

シャンクス率いる海賊に徹底的にやっつけられた山賊のリーダーは、ルフィ―を人質として小船に乗せて海に出ます。そして、「あばよ」と言ってルフィ―を海の中に落とします。ルフィ―は泳げないので絶体絶命です。更に状況は悪化します。山賊の後ろには「近海の主」という大きな魚がいて、小船もろとも山賊のリーダーを食べてしまいます。さあ、ルフィ―がどうなるかというところで、シャンクスが助けに入り、ルフィ―は間一髪のところで助かります。尾田栄一郎さんが上手だなぁと思うのは、このシーンに1ページのルフィ―の回想(43ページ)を入れるところもあるのですが、46ページでシャンクスが近海の主に「失せろ」と凄みを効かせて退散させた後、ルフィ―が泣くところです。このページを一読すると、ルフィ―はピンチをシャンクスに助けられたから泣いているように見えるのですが、「だってよ…」「シャンクス」「腕が」と、ルフィ―を助けたシャンクスが近海の主に左腕を喰われていた事が読者にわかる仕掛けになっています。ページをめくるとシャンクスは「安いもんだ」「腕の一本ぐらい…」「無事でよかった」ととてもかっこよい・男気のあるセリフを言いこのシーンは終わります。
このシーンには、その前のシャンクスたち海賊一味が山賊を退治し、シャンクスが「どんな理由があろうと」「おれは友達を傷つける奴は許さない」と言うシーンと共に、後に大ヒットになる「ワンピース」の良さが詰まっているような気がします。仲間のためならば腕の一本を喰われても眉毛1つ動かさない、というワンピースの美学があります。

このシーンへの伏線

さて、誰が見ても山場なこのシーンですが、もちろんこの第1話を1ページめから読んで行くと、このシーンにたどり着くために作者の尾田栄一郎さんが色々な伏線を張っているのがわかります。一番分かりやすいところで行くと、17ページの居酒屋に乱入してきた山賊がシャンクスを辱め、シャンクスがそれに腹を立てないエピソードでしょう。シャンクスは山賊のリーダーに公衆の面前で辱められますが、それに対してシャンクス本人も海賊の仲間も意に介しません。主人公ルフィ―だけがその屈辱を感じて「あんなのかっこ悪いじゃないか!! 何で戦わないんだよ」「いくらあいつらが大勢で強そうでも!! あんな事されて笑ってるなんて男じゃないぞ!! 海賊じゃないっ!!」と怒ります。上記のように、このシャンクスたちは仲間であるルフィ―をいたぶられたためにこの山賊たちに身体を張って闘うのですが、この1ページからの7ページのエピソードがあるために、読者は「普通屈辱を感じるはずのところでも寛大だったシャンクス一味は、仲間が傷つけられた時には身体を張って闘うのだ」という「ワンピース」の世界の海賊のルールを学び、また、これも上記のシャンクスの熱いセリフの後、実際にシャンクスが腕を一本犠牲にしてルフィ―を助けるエピソードを感動的に読むことが出来ます。
私が論じるまでもなく、「ワンピース」の第1話はとても完成度が高いものなのですが、その多くの要素は上記のことを読者に見せる尾田栄一郎さんの演出力と構成力によるのです。

何故尾田さんは出来て私たちはできないのか?

この読み切りを描いた時、尾田さんは私たちよりは上だったかもしれませんが今のような有名漫画家さんではありませんでした。尾田さんはいくつかの読み切り作品の他には長編漫画は「ワンピース」しか描いていないので、この作品で彼は大きな名声を得たことになります。私はこの「ワンピース」の第1話を面白いと感じます。私は漫画の技法を分析するのが仕事なので、脳みそのどこかでは「山賊の酒場のシーンは「関信の股くぐり」のエピソードの運用だな」とか考えている訳ですが、それでもシャンクスが左腕を失うクライマックスのシーンでは感情が揺さぶられてグッとこみ上げる熱いものを感じます。大事なのは、普段漫画家志望者の方々が描く漫画原稿を読んでいる時にはなかなかこういう風にならないということです(編集者の方の見方もだいたい同じだと思います)。
誤解がないように言うと、私は特に少年漫画家志望の方々がどれだけ漫画を愛し、どれだけ熱い思いで「ワンピース」のような漫画を描こうとしているかを知っています。みんな自分の夢をかけて、本当に真剣に「ワンピース」のような漫画を描きます。キャラデザだってキャラクターの感情線だってストーリーラインだって、尾田さんと天地の差ほどはないように感じます。しかし、とても現実的に言うと、みなさんの漫画のほとんどは「見たことがあるなぁ。ベタだなぁ」という感想になってしまいますし、逆に尾田さんの原稿は「久しぶりに読み返してみたけど、やっぱ第1話からすごいな。友情・努力・勝利の王道を地で行っているよなぁ」という感想になります。違いは、どこにあるのでしょう?

再説:「ベタ」と「王道」の違い 読者に飴をどういう風に食べさせるか 尾田さんの場合

前回の中間報告で書いたように、私は最近自分の中で長年疑問だった「ベタ」と「王道」の違いについて、ある程度の答えを見つけました。最近は方々でこの話をしているのですが、飴玉に例えてもう一度説明させてください。
私たちが山場・クライマックスで見せたいシーンを読者にいかに美味しく飴玉を食べてもらうかに例えます。

少年漫画・少女漫画は山場・クライマックスのシーン、つまり飴玉の味が美味しくないとその前のところをどんなにがんばって構成・演出したからといって面白い漫画・読者にとって美味しい飴になりません。この場合、飴の味はキャラクターとその運用になるでしょうか。なので、私たちは前提として、飴玉職人としていかに魅力的なキャラクターを作るか、いかに活き活きとして、読者がまるで自分の理想の親友を見つけたような気持ちになるかを鍛えなくてはなりません。尾田さんは、というか、売れている漫画家さんは押しなべてそれが出来ています。
そのうえで、じゃあその美味しい飴を読者にどういう風に食べてもらうかです。
今回論じた尾田さんの一連のエピソードの構成・山場の演出はこんな風に例えられないでしょうか?
イントロから尾田さんは「この飴、きっと美味しいですよ」と読者の興味を引きます。読者は何となくその飴を食べてみたいです。しかし、尾田さんはすぐに飴を読者に与えません。中盤、具体的には山賊の酒場のシーンなどで、主人公ルフィ―のセリフなどを使い、読者にも「なんだよ!闘わないのかよ!ていうか、早く飴くれよ」と焦らします。尾田さんは更に次のエピソードでルフィ―1人が山賊と闘いいたぶられるシーンなどで、読者を焦らします。この物語に感情移入した読者は既に尾田さんの術中にはまっていて、シャンクス達の登場とその活躍で少しだけ飴の味を感じるでしょう。そして、「この飴はとっても美味しい。間違いない。早く飴を食べたい!!」という気持ちで海でシャンクスがルフィ―を助けるシーンを読みます。つまり、尾田さんの構成・演出は「ほら、美味しそうな飴でしょ? これってとっても美味しいんですよ。でもまだあげませんからね」から始まり、読者が飴を食べたい気持ちがマックスになった時に、本当に美味しい飴(この物語で見せたいクライマックスのシーン)を読者の口に放り込むのです。で、実際に美味しいので、読者は次も食べたいという気持ちになります。これが、尾田さんの漫画が70巻を越えてもまだ世間で評価され、「もっと尾田さんの飴が舐めたい」と思わせる原動力になっていると思うのです。
尾田さんに限らず、多くの大御所の先生、名作と言われる作品を作って来た先生たちは、この読者に飴を食べたいと思わせてから口に放り込む技術にとても長けています。繰り返しますが、飴がとても美味しいのが前提です。が、食べさせ方もとても上手ということです。

再説:「ベタ」と「王道」の違い 読者に飴をどういう風に食べさせるか ベタな場合

さて、それでは私たちの読者の口に飴を放り込む技術、構成・演出はどうでしょう? 先ほども言ったように、私たちだって生半可な気持ちで漫画を描いていません。本当にプロになりたくて、本気で漫画を描いています。キャラクターへの愛情だってとてもあるし、原稿を丁寧に仕上げます。しかし、です。みなさんは原稿を作る時に、読者のことを考えているでしょうか? 読者にどういう風に飴を食べてもらうと、「ああ、この飴が食べたかった。そして、この漫画家さんの飴をもっと食べたい」と思ってもらうと漫画を作っているでしょうか? 残念ながら、作っていないと思います。プロの漫画家さんたちは、自分の作ったものが雑誌に掲載され、現実的にアンケートやネットでの評判という形で反応が見られるため、嫌でもその部分についての意識が高まっていきます。一方の私たちは、基本的に誰に読まれる前提でもない漫画を作っているため、もしくはとりあえず編集者に見せるためだけに原稿を作っているので、そこの意識が高まりません。
読者に飴を食べてもらう例えで言うと、みなさんの飴がせっかく美味しくても、イントロで「えへへ、飴食べたいでしょ? これね、私が一生懸命作った飴なんですよ」と手汗でベトベトになった飴を差し出したら、読者はどういう気持ちになるでしょう? 多くの場合「うわ、手汗でベトベトじゃん」でしょう。山場、読者は別に飴を食べたくないのに、無理やり読者の口をこじ開け、飴を放り込んだら、読者はどう感じるでしょう? きっと、飴の味を確認する前に飴を吐き捨てると思います。
この例えは少々大げさですが、本質的にはこんなことがあるので、みなさんの漫画は「ベタ」に見えてしまうのではないでしょうか?

特に読者ターゲットが少年・少女の場合は、構成・演出を鍛えよう

プロの漫画家とは、面白い原稿を描き、出版社を通して不特定多数の読者に自分の漫画を買ってもらい(読者は少ないお小遣いの中でみなさんの漫画を買います)、「あーおもしろかった。買ってよかった」と思ってもらうのが仕事です。私も今回のコラムで、この部分について改めて色々と感じました。魅力的なキャラクターを作るのはとても大事なことですが、それだけではなく、構成・演出の技術を磨き、読者を楽しませる必要があります。それが出来る人のみが「王道漫画」を描けるのです。
これは、特に読者ターゲットが少年・少女漫画のように若い世代に向けた作品では重要になります。

僕は少年漫画家志望者に向かって言いたいです。私たちも、「ワンピース」みたいな漫画を作りましょう。尾田さんは全知全能の神様ではありません。同じ人間です。ただし、常に読者を意識し、読者を楽しませることがとてつもなく上手な人間であることを認識し、「ワンピース」みたいな漫画を作りましょう!

 

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